おやじは荒野をめざす【アラスカ編】

がむしゃらに突き進むおやじに、アラスカは何を与えてくれるのだろう、、、

(10) ユーコン川の畔にて ー フランク安田の偉業【前半】

 鎖国時代に海外で活躍した日本人といえば山田長政やジョン万次郎が有名だけれど、明治後半のアラスカで極寒の地の村人を救い、当地では今も「アラスカのモーゼ」と尊称される日本人がいたことはあまり知られていない。

 安田恭輔、後のフランク安田は、明治維新の年に宮城県石巻市の裕福な医者の家に生まれたが、たまたま乗り込んだ船が難波してアメリカ西海岸をさまよい、更に彷徨を重ねてゴールドラッシュ前のアラスカに行き着き、安住の地を求めて更なる彷徨の果てにたどり着いた先がイヌイットの村バローだった。北極海に面するバローの自然環境は殊更厳しく、イヌイット以外の人間にとって、当時のバローは生存しうる限界の土地だったのではないだろうか。これだけでも大変な苦労だが、フランク安田の本当の苦労は、実はここから始まる。当時、ヨーロッパや新興のアメリカから、毛皮を求めて大勢の人々がアラスカに押し寄せていた。ラッコやアザラシ、カリブーが乱獲され、人々の命の糧である肉が確保できなくなった。その上、バローにやってきた白人が麻疹(はしか)の菌を持ち込み、人口はあっという間に半分以下になってしまった。イヌイットの酋長の娘ネビロと結婚して真っ当な生活がようやくできるようになったのも束の間、村人に強く請われてリーダーとなった安田は、みんなを救うためにカリブーの多い豊かな土地への移住を決意する。魔境とも言うべきブルックス山脈を何ヶ月もかけて越え、シャンダラー川を下り、ユーコン川近くで砂金を発見。それを元手にユーコン河畔の広大な土地に入植し、辺りにビーバーが多かったことから、その地をビーバーと名付けた。カリブー猟を再開し、家を建て、交易所を開いた。交易所は貨幣経済に馴染みのないイヌイットの人たちの経済的基盤を支えた。子供も授かり、フランク安田はやっと落ち着いた生活と幸せを掴むことができた。日本を出てから30年後のことである。1958年、日本が敗戦の混乱を抜け出し奇跡の経済復興へ突き進もうとするその時、フランク安田は一度も故国に戻ることなく、ユーコンの畔で息を引き取った。享年90歳。

 フランク安田のことを私が知ったのは、新田次郎の小説「アラスカ物語」によってである。アラスカの過酷な自然環境に加え、人種差別もあっただろう。自分が生き延びるだけでも大変なのに、同じアジアの血を引くイヌイットの人々を率いてユーコン河畔に理想の村を築いた。本のあとがきには「フランク安田の墓はビーバーの村にある」と記されていた。私はアラスカの旅程にフランク安田の墓参りを組み入れた。

 

フェアバンクスから四人乗りの小型飛行機で3時間。ビーバーの村は、蛇行するユーコン川と数えきれないほど多くのその支流、湖沼、ツンドラの只中にあった。土を固めただけの飛行場から徒歩5分のところに学校があり、校庭の片隅にテントを設営させてもらった。墓はすぐに見つかった。村外れと聞いていたが、村中央の墓地の一番奥に、他の墓と全く同じ佇まいでひっそりと立っていた。墓標の前に献金用と思われる粗末なブラスティックの箱が置かれているのが唯一の違いで、野口英世級の偉業を成した人の墓とは到底思えない。でも、それがかえってフランク安田という人の人柄を表しているように私には思えた。隣には奥さんのネビロの墓。二人の仲睦まじい様子が眼に浮かぶようだった。 

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左 : フランク安田と妻ネビロ。二人とも屈強の精神そのものの風貌である(アラスカ大学博物館所蔵の写真)。

中 : 墓苑の奥に他の村民たちと全く同じ大きさの墓標。墓前の箱にはわずかばかりの現金と手紙のようなものが入っていてた。私は日本から持って来たお守りを供えた。

左 : 墓標下のプレート。一瞬、富士山かと思ったが、、、

 

【後半】に続く