おやじは荒野をめざす【アラスカ編】

がむしゃらに突き進むおやじに、アラスカは何を与えてくれるのだろう、、、

(26) ワイルドライフ〔その1〕

アラスカをめざした理由の一つは、野生動物との出会いだ。日本では考えられないような自然の豊かさとスケール、そして奥深さを感じないわけにいかない。

 

◾️ムース だんだんムースが近づいてきた。草食動物とはいえ馬よりも遥かにでかく、近づけばなおのこと迫力が増す。こちらの様子を窺いながら10メートルくらいのところで一旦止まって草を食んでいたが、ふっと顔を上げ、私の存在は無視と意を決したように、ずんずんこちらに向かってくる。すでに、慌てて車に走っても間に合わないところまで接近してしまった。運を天に預けて、私はそのまま撮影を続けることにした。 

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 ◾️カリブー 広大無辺なツンドラの一点と、今、私は交感している。走るというより飛ぶと言った方がぴったりする様でツンドラを駆け回っていた若きカリブーは、私の姿を認めて動きを止め、好奇と警戒が入り混じった眼差しで私と対峙した。動きも形も人間には作り出せない完璧な美しさだが、その裏には、明日の命すら保証されない絶対的な孤独があることに気づいた。

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◾️モスコックス 気配を消して斜面を登るにつれて、雪をいただいた山をバックに、モスコックスの群が全容を現した。十頭ほどの群れには今春生まれたと思しき小さい個体も含まれている。こちらが数メートル移動するのに合わせて、群のボスが頭を下げ角をこちらに向けて立ち位置を変えている。向こうはいつでも斜面を駆け下りてこれる体制だ。常に退路の安全を確かめながら、私はさらに距離をゆっくり詰めていった。 

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 ◾️ブラックベア カメラのファインダーの中のクマの目と私の目が合った。私はクマの目を食い入るように見つめ、なんらかのサインを読み取ろうとした。しかし、クマは無表情のままで、その無表情こそが、我々人間と野生との距離であることを知った。 

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 ◾️グリズリー 車まで30メートルの隔たりがあるが、そこは比較的平坦な荒地で、凸凹に注意すれば、なんとか走って戻れそうだ。しかも、ある程度の水深と流速のある幅10メートルほどの川がグリズリーと私を隔てている。少しずつ距離を詰め、私は対岸のクマの斜め正面に陣取り、三脚とカメラをセットした。二日間、野山を探し回った挙句のラストチャンスだ。 

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◾️ビーバー 「いかにも出そうな場所」で待っていると、ヤツはきっと現れる。気持ちよさそうに泳いで近くまで来るとバシャンと水音を立てて潜水しては浮上、それを飽かずに何回も繰り返す。「私って泳ぎ上手いでしょ、、」とでも言ってるんだろうか。 

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 ◾️オオカミ クマ以上に会いたかったのがオオカミだ。バンクーバー島北部、ユーコン、アラスカなどで勇者の姿を追い求めたが、結局、足跡を何回か見ただけで終わってしまった。足跡がある以上いることは間違いないし、それなりに追跡もしたのだが。考えて見ると、「気配はあれど姿なし」こそがオオカミに相応しいのかもしれない。

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 ◾️リンクス こちらにはピューマやクーガーと呼ばれるヒョウくらいの大きさの猛獣がいるらしい。それらに比べれば中型犬程度のリンクスは可愛いものである。耳の先のとんがった毛がチャーミングだし。そんなだから、見つけたら、即追いかけて撮影したものである。

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(25) 工夫の天才

 仲のいいカナダ人、正確にはギリシャからの移民なんだけど、彼に「日本は素晴らしい国だな。日本人は優秀で俺は日本人が大好きだよ。韓国人や中国人とは違うよな」と言われた。「日本人の女の子は本当によく働いてくれたぜ。今いるのは韓国なんだけど全然ダメ。早くあの子辞めさせて日本人雇いたいよ」と言ったのは、戦乱のアフガニスタンから逃れてきて現在はカフェのオーナーをしている男だ。同じようなことを色々な人から色々なところで言われた。言った本人が白人であろうと非白人であろうと関係なく、私は「はあ」と返し「はい」とは言わなかった。中国の友人から「私は日本人は好きだけど、韓国の人は本当は好きじゃないわ」と言われたこともある。私は返事をしなかった。いずれの場合も、同意を求められたり「キヨシはどう思う?」と聞かれたら、「じゃあ、本当のことを言わせてもらうけど」と前置きして「日本を良く言ってくれるのは Thank you. だけど、中国や韓国をけなして日本を持ち上げる言い方は喜べないし、実は不愉快なんだ」と返すつもりでいた。本音が陽の目を見ることがなかったのは幸なのか不幸なのか、よく分からないけれどね。

f:id:ilovewell0913:20191208131855j:plain▲散歩中の奥さんとホームレスorさすらいの旅人が犬談義してるとこに道路工事のおっさんが参加。ある街角の朝の風景。金持ちと貧乏人、男と女、年寄りと若者、頭いいやつとアホなやつ、、、そんな区別は関係ない。世の中、面白いやつとつまらないやつ、それしかないと思うよ。

 

 日本という国はちょっと不思議なところのある国なんだと、カナダ・アラスカを旅していて気づいた。自惚れや自信過剰ではなく事実として、日本はこちらの人たちから特別な思いで受け止められているみたいなことも分かった。カナダでもアラスカでも、町中に日本製品が溢れている。車・バイク・食品・化粧品・文房具、、、Japan Made は高性能かつ高級品としてこちらの人たちから羨望の眼差しで見られている。確かに、日本製品は実によく考えられ工夫され作り込まれている。昔も今も日本は加工貿易で食っているが、単なる「加工」のレベルを遥かに超して他国では真似のできない「付加価値」を新たに生み出している。「元々は日本になかったものを外国から取り入れて、工夫と改良を重ね、お手本であった外国製品を遥かに上回る優れた製品を作り出し、リーズナブルな価格で提供する」という意味において、日本人は「工夫の天才」ではないかと思っている。自分サイドに「天才」という言葉を使うのは謙虚さがないと思わないでもない。しかし、そう言ってしまいたいほど、日本製品は優れているし、高い信頼を得ているし、売れている。

 日本製品に対する圧倒的な高評価は、実は、日本文化に対するリスペクトと無関係ではないと思う。ニューヨークやボストンの美術館では、有史以来の世界の芸術の紹介の中で、日本文化だけが"国単位"でその芸術性の高さと特殊性を、他とは切り離した形で紹介していた。アメリカもカナダも歴史の浅い国だから、古いものや歴史の重みみたいなものに憧れ、そして恐らくは自国の文化に引け目を感じている。彼らから見て日本は「自分たちにはない長い歴史を持ち、独自の文化を発展させた」摩訶不思議な東洋の小さな国なのだ。その日本が作り出す数々の工業製品がまた、彼らにはおよそ考えもつかないような創意と工夫に満ちている。日本製品への圧倒的な信頼は、日本文化へのリスペクトが下支えしている。

 

 晩飯には久しぶりに肉を焼いた。レストランのステーキは、市販のソースをジョバっとかけるだけだし、「ミディアム」と言っても端が黒く焼け焦げた「スーパーウェルダン」が出てきたりする。安宿のキッチンで自分好みに焼き上げた肉に、工夫を凝らしたソース、これは数種類のソースに醤油・日本酒・肉汁を混ぜ合わせ、少量のジャムで味をまろやかに調えたものだが、それをたっぷりかける。季節野菜のソテー、ご飯代わりのマッシュポテトで味の強弱を自分好みにアジャスト。ジャガイモの茹で汁に塩胡椒だけのスープは、そのシンプルさゆえにジャガイモの旨みをストレートに伝えてくれる。ゆっくりした時の流れの中での男一人の食事。ああ、美味かった。安物のアメリカンビーフだけど、工夫次第でこんなにも上等なディナーになる。日本人は"凝り性"で"工夫好き"だけど、自分も紛れもなくその一員なんだなあ、、、そんなことを考えながら渋目の日本茶をすすり、食後の甘みとして、日本人の創意工夫の賜物であるアンパンを食らった。f:id:ilovewell0913:20191208133827j:plain

 

 

(24) ファーストネーション

 今回の旅ではいろいろなところでファーストネーション、先住のイヌイットの人たちと出会った。北極海に近いイヌビクのスーパーでは、突然イヌイットのオバハンに「あんたは私の従兄弟とそっくりだよ。なんて名前なの?」と呼び止められ、「日本から来たキヨシ イノウエというケチな野郎でござんす」「ありゃ、あんた、ミドルネームないんだね。じゃ、私がつけてあげる。ミドルネームは Denny がいいね。あんたにぴったりだよ」「ありがとさんでござんす、、、」、こんなやりとりがあった。イヌイットの人たちがどんな生活をしているか、差別のようなものはあるのか、それを実際に見て確かめるのも、この旅の目的だった。

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 イヌイットの人たちが白人に混じって働く姿を思い出そうとしているが、浮かんでこない。船着場ではイヌイットの人たちをよく見かけたが、道路工事はなぜかほとんどが白人だった。他に彼らが働く場所は、、、と思い浮かべようとしても、出てこない。つまり、恐らくではあるけれど、彼らイヌイットは、私のような旅行者の目に触れる場所では働いていない、または、そもそもあまり働いていないのではないか、そんな思いに行き着いた。でも一つだけ例外があって、それはイヌイットの人たちにしかできない、または彼らがやった方がしっくりする仕事、つまりイヌイットの人たちが作った手工芸品を売る店や彼らの伝統的なダンスを披露する劇場での仕事などだ。不思議なのは、例えばイヌイットの人が作ったキーホルダーが25ドルで売られていて、他の普通の土産物に比べて値段が高い。もしかしたらイヌイットの工芸品販売組合みたいのがあって値段を高めに設定しているんじゃないか、そんな"下衆の勘繰り"をしたくなるような価格だ。そして、このような状況を社会全体が容認している印象もあった。取材不足で、正確かつ突っ込んだ説明ができないのだが、なんとか彼らにも経済的に自立してもらいたい、そんな思いを周りが抱いているのではないか。旅人の目にはそんなふうに映った。

 イヌイットがアラスカに住み着いたのは今から何千年も昔のことで、一方、白人が定住し始めたのはせいぜい数百年前程度だろう。イヌイットの呼称「ファーストネーション」は「彼らが先に住んでいた」と「彼らは我が国民である」をそのまま表している。歴史的事実だから当たり前のことだが、それをあえてもう一度おおっぴらに言うところが、いかにもアメリカらしい。白人は、イヌイットが住んでいた土地に後から乗り込んで来て、イヌイットを追い払い、良い土地を占有した。強いものが弱いものを駆逐したという史実を私たちは決して忘れてはいけない。しかし、その後の強者側の振る舞いを見ると、弱者に対して手を差し伸べようとしているようにも感じられる。一方、弱者たるイヌイットの人たちは、白人の手を払うでもなく、かといってありがたく受け入れるでもなく、、、通りすがりの私には、そこまで想像するので精一杯だった。

 

 イヌイットのオバハンに声をかけられたスーパーのフードコートで昼ご飯を食べた。周りはイヌイットの人たちばかり。モンゴロイドの血の色濃い人、白人に近い顔立ちの人、まるで日本人という人もいた。古びたスーパーのフードコートは、東西の血のミクスチャーの見本市さながらだ。何千年も前にベーリンジアを渡り、その後、数千年の歳月をかけて撹拌された結果が、今、目の前に展開されている。彼らにはちょっと申し訳ないが、どんな立派な歴史博物館よりもよほど興味深い。そんなことを考えながら三時間もぼっとしていたら、隅っこの椅子に一人で座るイヌイットの男に、他の人たちが食べ物をあげているのに気づいた。彼は身なりが一際みすぼらしく、ホームレスなのかもしれない。私のテーブルには、満腹で食べきれないフライドチキンが手付かずのまま一個残っていた。彼らの流儀に従えば、私はこの冷めたチキンを彼に差し出すべきだろう。でも、彼のテーブルまで行って食べ物を恵むという行為が途方もなく遠く重いように感じられた。近くの若いイヌイットに「どうしたらいいか」と尋ねてみようか。いや、そんなことをして、仮に「勿論、あんたはチキンを彼にあげるべきだよ。そんなの当たり前だよ」と言われても、その通りにできない自分が容易に想像できた。長い間考え、随分と迷った挙句、チキンの残りカスと手付かずのチキンを箱に戻し、私は席を立った。出口の近く、彼からは見えない位置に大きなゴミ箱があった。例のチキンの箱をゴミ箱に捨て、私はそそくさと店の外に出た。なんでそういう行動を選んだのか、外国では当たり前にやっている「食べ残しの持ち帰り」をなぜしなかったのか、その理由が思い出せないのだが。

 

(23) アリューシャン探訪

 今から50年以上前、日本中の小学生は毎週火曜日(だったと思う)を楽しみにしていた。「少年サンデー」と「少年マガジン」という二大週刊漫画の発売日だったからだ。で、その「少年マガジン」(だったハズ)の巻頭特集に太平洋戦争が取り上げられ、あるページのタイトルに「アッツ島玉砕」とあった。「アッツ」という短音が妙に心に響き、また「玉砕」という言葉の意味を父親に尋ねたのを今も覚えている。

 アラスカからシベリアのカムチャッカ半島まで連なってのびる、アリューシャン列島と呼ばれる島々がある。人間の考えた日付変更線など意に介さないかのように、太平洋の北辺をまるで真珠のネックレスのように飾っているのだが、その連なりの西端にアッツ島はある。さらに、カムチャッカから北海道へ繋がる千島列島があり、つまり日本とアラスカは、カムチャッカ半島をセンターに介し、アリューシャン・千島という二本のチェーンによって結び付けられているのだ。海と島を素材にして地球に描かれた地形的文様の中で、これは際立って美しい。近くまで来たのだ。折角だから行ってみよう、憧れのアリューシャンへ。

 調べてみると、現地ではアトゥーと発音するアッツ島アメリカ軍の要塞と化しているようで、考えてみれば対ロシアの最前線である。そこで、アリューシャンの島々のうち、一般人が入れる最も拓けたウナラスカ島に目的地を変更した。そして、島唯一の町ダッチハーバーは、75年前に旧日本軍のゼロ戦が爆撃したアメリカ本土で唯一の場所だったのだ。

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▲びっしりと緑に覆われた斜面の下に赤錆びた難破船が見える。ゼロ戦に攻撃された船だ。ハワイの真珠湾、即ちパールハーバー奇襲は日本人ならまず知っているだろうが、ダッチハーバー攻撃を知る人は限られるだろうし、このまま何事もなく時が経てば、いつしか、忘れ去られてしまうのかも知れない。

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 そんな血なまぐさい歴史を持った島だから、私のような呑気な日本人が足を踏み入れていいんだろうか。70年以上の時が流れているが、反日とまではいかなくても、嫌日くらいはまだあるのではないか、そんな心配が確かにあった。「なぜ来たのか?」と問われたら、「日本人がやったことを、同じ日本人として、この目で確かめに来た」と答えればいい。そんなことを考えながらダッチハーバーの空港に降り立った。濃霧による欠航で今日のフライトまで一週間の待ちぼうけを強いられたが、待った甲斐があった。ダッチハーバーは爽やかな夏の日差しで旅人を迎え入れてくれた。

 最初に「戦争記念館」を訪れた。入り口のドアをくぐり受付の年配の女性に見学の意を伝えると、「どうぞごゆっくり」といたって普通に遇された。見学者は私一人で、展示品は「いつ、どこで、何が起こったのか」を客観的に示していた。ゼロ戦の部品や日本軍が使っていた武器や生活具などもあったが、日本の旧体制に対する一方的な説明はなく、努めて冷静に過去の歴史を振り返り、現在に繋ぎ止めようとしているように感じられた。帰り際、受付の女性から分厚い冊子を進呈された。戦争の記録ではなく、アリューシャンに生まれ育った人々の暮らしをまとめたものだった。 Thank you so much. と礼を述べて、表紙に来館記念のスタンプを押した。そっとスタンプを上げてみたら、上下逆さの文字が下から現れた。受付の女性と思わず声を上げて笑ってしまった。

 町では日本企業と思われる会社名を度々目にした。土地の事情通に話を聞くと、アリューシャンの漁業は日本の水産大手の会社が支えているとのことだ。港湾設備だけでなく道路や橋などのインフラ建設は日本の水産会社が地元にもたらす利益で賄われているらしいし、恒例のダッチハーバー祭も、日本企業の協賛金によって成り立っているとのことだった。

 最後の3日間はダッチハーバーから縦横にのびるトレイルをのびのびと歩き回った。クマがいないということが人間の精神と活動にこんなにも直接的な影響を与えるものなのかを実感しながら、原始の匂いがむんむんするアリューシャンの自然と心ゆくまで戯れることができた。草原、花、川、滝、浜辺、白頭鷲、マーモット、サーモン、、、それらは、私が今まで見た自然の中で、もっとも原初の姿に近いものだったのかもしれない。戦争の爪痕、日本企業による経済的繁栄、無垢の自然、一見、相反するようなこれら三つの要素が絶妙なバランスで混在している、それが戦後七十五年を経過したウナラスカ島の今の姿だった。

 

(22) やばかったこと〔その2〕

◼︎スピードオーバーでポリに呼び止められる パトがすぐ後ろを走っている。邪魔になっちゃ悪いなと道脇に車を寄せたらパトも同じことをする。えっ、これって俺の車に用があるわけ?なんかいけないことしたかなあ、、、空き地に停車。パトも停まる。ドアを開けて外に出ようとしたら「出るな。車内にとどまれ!」と大声で命令された。190センチはあろうかというアメリカンサイズのポリがのっしのっしと私のとこまで来て、免許証・パスポートをチェックする。「レンタカーなら契約書を見せろ。ちゃんと保険に入っているんだろうな、、、」。こういう時に限って必要なものが出てこないのが人生というものだ。そこいら中をひっくり返して、余計頭が混乱して、我ながら出てくる気が全然しない。レンタカーの見積書があったから、とりあえずポリにそれを渡して、、、と思ったら「保険についてのメモがあるな。ま、いいだろう。あんたは20マイルのスピードオーバーだった。本来なら切符を切るところだが、ちゃんと保険にも入っているようだから、今回だけは見逃してやる」オォ、ありがたいお言葉。このポリ、顔の割の心優しいぜ、ラッキー!しかしね、アメリカのポリはピストルをすぐに抜くってイメージあったから、マジ、ビビりました。

教訓 : 制限速度の表示に注意。ポリには逆らわない。

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◼︎おっさんに連れて行かれたやばい店 「たまには外で、、、」と考えて、一人、パブで地ビールを静かに飲んでいたら、隣席のおっさんと意気投合し、2軒目の途中までははっきり覚えているが、その後がトンデモナイ事になった。3軒目の店に入るとき、ネオンサインがやたら眩しく怪しいのには気づいたのだが、中に入ると、、、これはやばいんじゃないの。ありゃ、あんなことしちゃってまずいでしょ。アリャャャャャ、、、で、誰がお金払うことになるの?あ、ああ、あああ、ぁぁぁ、、、店を出る時まではおっさんと一緒だったはず。その後、私ゃどっと疲れが出て、タクシーで安宿に戻り、しっかし、あれは一体なんだったのだろう、、、

教訓 : 知らないおっさんにはついて行かない(これについての写真はありません)。

 

クマに追いかけられて川の中で転んだり、暗くなるまで釣りをして帰り道が分からなくなったり、山の中で尿路結石が再発したりなんてのもあった。自分が気づかない「危険とのニアミス」もいくつかあったんだろう。なんとなく気配がおかしかったり、全く気づかずにノーテンキにやり過ごしたなんてのもあったかもしれない。でも、何しろ、最後まで旅を続けられ、無事帰国できたのはありがたいことだ。中一の秋に一人で山を歩き始め、中三でヒッチハイクの楽しさを知り(もっとも、当時はタダというのが一番の魅力だったんだけどね)、日本国中、様々なところをほっつき歩いてきた。そのせいで学業がおろそかになったり、あらぬ方向へ脱線しかけたこともあったが、「危険に対する感覚」だけはそれ相応に備わっていると自負している。その辺のことが、山の中でも、町にいても、そして今回の長旅でも役立ったと思っている。「どんな経験も必ずいつかどこかで役に立つんだよ」と先代のばあ様が私の頭を撫ぜながらよく言っていたが、昔の人の言うことは、うむ、奥が深いなぁ、、、

 

(21) やばかったこと〔その1〕

◼︎車の追い越し アップダウンはあるものの、どこまでも真っ直ぐに伸びるハイウェイを快適に飛ばしていたら2台のキャンピングカーが見えてきた。中央ラインは追い越しOKの破線。2台まとめて抜いちまうか。上り坂に差し掛かったところでアクセルを踏み込み反対車線に移ってググッと加速。連なって走っていると思った2台のキャンピングカーが意外と離れていて追い抜きに手間取る間に、上り坂のピークが近づいて来る。「元の車線に戻ろうか、、、」と一瞬思ったが、アクセルをさらに踏み込んで追い抜き、上り坂のピークを過ぎ、元の車線に戻ってゾッとした。もし、あの時、上り坂のピークの向こうから対向車が来たら、、、

教訓 : 「追い抜きは追越し用の車線がある場合のみ」と決め、最後まで徹底。

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◼︎宿に財布とパスポート置き忘れ 車は快調にアラスカハイウェイを疾走していた。クマが多いと噂のスチュワートへ向けて、心はルンルン、エンジンはブンブンなんて馬鹿なこと言ってたら、あ、いけね。パスポートと財布を宿に置き忘れた。車を停めて、2時間前に出たモーテルに電話する。

「さっきそちらを出たキヨシ イノウエです。部屋にジャケット置き忘れたみたいで。実は、パスポートと財布が入ってるんですよ、そのジャケット」

「そういえば、掃除した母ちゃんが、お客の忘れ物とか言って、なんか持って来たなぁ、、、ちょっと待って。あぁ、あった。あったよ、お客さん」

「すぐ戻りますから、ちゃんと取っといて。よろしく!」

2時間後、パスポートと財布は無事戻った。カード類も大丈夫だった。宿のおっちゃんと肩組んで記念撮影。「あんたが正直者で本当に助かった。あんたは日本とインドの友好の架け橋だ、、、」

教訓 : 移動の時は運転席前の注意書きを見て必ず確認。

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◼︎丸太の通り抜けでレンタカーに傷 薄暗くなってから、以前泊まったことのあるキャンプ場に向かった。誰もいない森の中のキャンプ場。入口からすぐのところに木が道を塞いでいて、でも、車が通り抜けられるように、チェーンソーで木の出っ張りをカットしてある。ギリギリではあるが、ま、なんとかなるだろう。てか、通れるように切ってあるはずだ。「通れる、通れる」と念じながらハンドルを操作。ギギギと嫌な音がして、えっ?と思ったけど、朝からの運転の疲れでそのまま進んでしまった。もう一度ギギギの異音。やっちまった。右側ドアの下部をへっこませてしまった。旅が始まったばかりだというのに、しょんぼり、げんなり。

教訓 : 安全が確認できない場合は、必ず車を降りて確認。

※4ヶ月後のレンタカー返却がずっと気がかりだったが、な、なんと「車体自損」の保険で全額カバーできた。めでたし、めでたし。

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(20) ベーリンジア

 何年か前に読んだ本の中に「ベーリンジアというところは一度行くと"病みつき"になる」みたいなことが書いてあって、妙にこれが頭にこびりついた。ベーリンジアとは、ウン万年前にユーラシア大陸北米大陸を繋いでいた陸橋なんだけれど、そのベーリンジアが昔あった辺りを繰り返し訪れる人ってどんな人間なんだろう。人生を捨てでもしない限りとても繰り返し行くなんてのは不可能な「僻地 of 僻地」だと思う。私には"病みつき"はとても無理だけど、折角近くまで来たんだからと、ベーリング海峡に面した町ノーム行きの飛行機の予約を取った。そして、出発前にホワイトホースのベーリンジア博物館に行ってにわか勉強をした。ベーリンジアは今から数万年前の氷河期に海水面の高さが今より100メートル下がったことによって二つの大陸が地続きになった時の幅数千キロの陸橋で、一万年前の間氷期に消えた。ここを渡ってシベリアからアラスカに分布を広げたのは、大型哺乳類に限ってもマンモス、トラ、オオカミなどいくつも挙げられるけど、モンゴロイド、つまり我々の仲間がここを渡って新大陸に移り住んだ。グレートジャーニーとも称される人類の壮大な歴史ドラマのクライマックスとも言うべき舞台がベーリンジアだ。

 

 

 部屋の小さな窓から外の雨をぼっと眺めていたら、宿の女主人がやっと帰ってきた。「はーい、キヨシ、初めまして。後で友達の店に飲みに行くけど、あなたも来る?海の近くの洒落たパブなんだけど」。ということは海峡が見えるんだな。こりゃ、願ってもないお誘いで、即OK。未舗装の悪路を女主人はかなりのスビードで飛ばす。凸凹の振動で頭を天井にぶつけ、マジ痛い。それにしても変な道だ。海に向かっているのは確かだけど、さっきまで右に見えていた海が、しばらくしたら左になり、さらに両側の海が接近して、車は海に挟まれた細い道をひた走っている。たまに出てくる橋で二つの海が繋がったりしながら、低い丘を越したところでに、左右の海が一つに合わさり、鉛色の海原が冷たい雨で霞む沖合まで広がっていた。18世紀の探検家ベーリングが命を賭して航海し、太古の昔には我々の祖先が数千年の年月をかけて渡ったベーリンジアの海だ。

 次の日、ノームの繁華街をぶらついた。繁華街といっても、100メートルほどの道の両側にスーパー・レストラン・カフェ・土産物屋・ガソリンスタンド・ホテル・役場などがポツリポツリとあるだけだ。パブで軽く引っ掛けて店を冷やかしながら歩いていたら、漁協の販売所に行き着いた。中を覗くと、大きな水槽の中でタラバガニがのそのそと動いているじゃないか。「よし、今晩はカニ。たらふく食うぞ!」。一番デカイのを23ドルで買い求め、私は宿への道を急いだ。

 

 ベーリング海峡の町ノームには、普通の人々の生活が当たり前にあった。北極海を見るために訪れたトゥクトヤクトゥクやプルドーベイは資源開発や石油採掘の基地であり、だからこそ未舗装とはいえ通年通行可の陸路が通じていた。それにひきかえノームは"陸の孤島"で、夏は小型飛行機、冬はアイスロードと呼ばれる凍った川に仮設される"道路"で行くしかない。ノームの町では、一万年以上も前にベーリンジアを渡ってやってきた人々が、今はスーパーでレジを打ち、カニ獲り漁船に乗り込み、パブを経営し、あるいは家庭の主婦として 、我々と基本的にはあまり変わらぬ暮らしをしていた。昔、金(きん)を求めて殺風景なこの地を初めて訪れた欧米人が「ここはなんていう土地だ?」と尋ねたら、ネイティブが「ノーネーム(名前なんてないよ)」と返し、それを聞き違えてノーム(Nome)と呼ばれるようになったという話がある。現在のノームは、人々の慎ましやかな生活に彩られた、小さく静かで平和な町であった。 

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▲この先にシベリアがあると思うと、無理と分かっていても、思わず目を凝らして遠くを眺めてしまう、それがベーリンジアの海であった。