おやじは荒野をめざす【アラスカ編】

がむしゃらに突き進むおやじに、アラスカは何を与えてくれるのだろう、、、

(11) ユーコン川の畔にて ー ポールの老母【前半】

 ビーバー初日、村の中を写真を撮りながらあてどなく歩いていたら、先ほど学校で会ったイヌイットの男の人が「今、サーモンを料理しているから、晩ご飯まだのようなら食べに来ないか」と誘ってくれた。宿泊施設のない僻地ゆえ、山用のわずかばかりの食料で我慢するしかないと思っていた私には願ってもないお誘いである。ありがたくご厚意に甘えることにした。

 物置と思い込んでいた建物が、夕食に招いてくれたポールの家だった。白人のような名前だが、学校でイヌイットの言葉を子供達に教えているらしい。家に入った瞬間、暗く、狭く、物がごちゃごちゃしてるのに気づいた。ポールが母親を紹介してくれた。

「ありゃ、おばあちゃん。お幾つですか?」

「うんにゃ、88だわさ、、、」

 歯が全部抜け落ちているようで、言葉が聞き取りにくい。ただでさえリスニングが弱点の私にはなおさらである。

「お元気そうですね。私は日本からやってまいりました。67歳で一人旅をやってる者でござんす」

「ふにゃ、ふにゃ」

 ばあちゃんは口をくちゃくちゃ言わせながら、紙の皿の小ぶりのサーモン切り身を食べていた。ポールが私の分を持ってきてくれた。同じように紙の皿に盛られた切り身で、付け合わせは水っぽいマッシュポテトだった。サーモンの端っこをつまんで口に入れたがあまり味がしない。テーブルの上の塩をふってもう一口。少し味らしくなってきた。この味の薄さは、カナダ・アメリカで初めて体験する薄さだ。そうか、同じアジアの血を引いているから、イヌイットの人たちも我々日本人と味の好みは似ているのかもしれない。ばあちゃんのと同じにサーモンの切り身は小ぶりだが、考えさせられることは山盛りだ。サーモンは目の前を流れるユーコン川でいくらでも取れるはずなのに、なんでこんなに小さく薄切りなんだろう。ばあちゃんはこの分量でいいとしても、ポールはどうなんだろう。彼も同じサイズか。いや、まさか、自分の分を私に供してはいないと思うが。それに紙の皿。使い捨てじゃ勿体無い。普通の皿を買うお金がないのだろうか。大きめの骨だけ残して綺麗にサーモンとポテトを平らげばあちゃんの皿の上に自分のを重ねた時、ばあちゃんの皿には骨すら残っていなかった。部屋の暗さに目が馴染んでくると、色々な物、洋服とか本とか、箱とか、袋とか、全てがそのまま床やテーブルの上に置かれている、積み重ねられている。棚とかタンスみたいなものは見当たらない。サーモンの写真は撮ったが、それ以上撮影するのが憚られた。ポールは暗い部屋の片隅で外の明かりを頼りに、イヌイットのお守り作りに忙しそうだ。私は「ごちそうさま アンド サンキュー ソウ マッチ」と言って、その場を辞した。

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 左 サーモンだけでなくマッシュポテトも薄味で水っぽかった。塩をバンバンふりかけるのは何となくためらわれた。

右 歯が無いのと足がやや覚束無い以外はしっかりしている。孝行息子のポールと二人暮らし。

 

【後半】に続く

 

(10) ユーコン川の畔にて ー フランク安田の偉業【後半】

 ビーバーは人口100人程度、ツンドラの海に浮かぶ"陸の孤島"だ。写真を撮りながらのんびり歩いても半日とかからずに回れてしまう。家々の入り口にはヘラジカやカリブーの角が飾られていて、何に使うのか分からない、おそらくはウン十年前に活躍したに違いない機械があちこちで錆だらけの姿を晒している。ユーコン川で取ったサーモンを捌き燻製にするスモークハウス。キリスト教会、診療所らしき建物。商店は見当たらず、休業中と思しき郵便局と派出所。どう言うわけか人の出入りの多いトイレ付きランドリー。村内に舗装路は無く、村人は四輪バギーを日常の足として使っている。みんな、どんな仕事をしているのだろう。どうやって現金を得ているのだろう。買い物はどうしているのか。事件や事故は起こらないのか。

 

 朽ち果てた建物が目に留まった。個人の家にしては大き過ぎるから、昔は商店だったのだろうか。屋根が崩れて、それを補うようにブルーシートが掛けられているが、風でめくれ上がって用をなしていない。ぐるりと周りを回って、入り口横のガラス窓に張り紙があるのに気がついた。

「フランク安田が営んでいた交易所」

 そうか。フランク安田は晩年に交易所を営んでいたと新田次郎の『アラスカ物語』に書いてあったが、それがこの建物なのか。交易所はとっくに消えて無くなっていると思っていたけど、まだ残ってたんだ。でも、なんで日本語で書かれているんだろう。誰が書いたのか。歴史的遺構を目の前にして、様々な思いが頭をめぐる。このまま放っといたらどうなってしまうんだろう。アラスカの風雪だ。何年も経たずに朽ちて崩れて無くなっちまうぞ。フランク安田は自分の命だっていつ消し飛ぶか分からない状況の中で、「みんな」のことを考えた。自分よりも「みんな」を優先した。人間として、これ以上高貴な生き方があるだろうか。フランク安田が「みんな」のために働いた人生最後の仕事場、それが、今、私の目の前にある、この崩れ落ちんばかりの交易所なのだ。

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 果てしなく広がるユーコンデルタを帰りの飛行機から眺めながら、当てどない考えが頭に浮かんでは消えていった。あの交易所を保存する手立てはないものか。ブルーシートだけなら50ドルもかからないだろうが、誰がそれを屋根に掛けると言うのか。隣家のポールに頼むか。仮にそれができても、余程しっかり固定しないと、一冬も越せずに吹っ飛んじまうぞ。恒久的な処置なんて、とても個人でできるものじゃない。お金のことだけ考えても3万ドル、5万ドル、、、一体いくらかかるというんだ。でも、このまま放っておくのはあまりに勿体無い。だって、フランク安田は日本の宝じゃないか。1世紀前の極限の地で繰り広げられたフランク安田による人間生存のための孤高の戦いを、歴史の闇に埋もれさせてはいけない。誇りと理念を見失ったかに見える今の日本の若い人たちにこそ、この歴史的偉業を知らせなければいけない。そのためには、あの交易所をナントカシナイト、、、

 

(10) ユーコン川の畔にて ー フランク安田の偉業【前半】

 鎖国時代に海外で活躍した日本人といえば山田長政やジョン万次郎が有名だけれど、明治後半のアラスカで極寒の地の村人を救い、当地では今も「アラスカのモーゼ」と尊称される日本人がいたことはあまり知られていない。

 安田恭輔、後のフランク安田は、明治維新の年に宮城県石巻市の裕福な医者の家に生まれたが、たまたま乗り込んだ船が難波してアメリカ西海岸をさまよい、更に彷徨を重ねてゴールドラッシュ前のアラスカに行き着き、安住の地を求めて更なる彷徨の果てにたどり着いた先がイヌイットの村バローだった。北極海に面するバローの自然環境は殊更厳しく、イヌイット以外の人間にとって、当時のバローは生存しうる限界の土地だったのではないだろうか。これだけでも大変な苦労だが、フランク安田の本当の苦労は、実はここから始まる。当時、ヨーロッパや新興のアメリカから、毛皮を求めて大勢の人々がアラスカに押し寄せていた。ラッコやアザラシ、カリブーが乱獲され、人々の命の糧である肉が確保できなくなった。その上、バローにやってきた白人が麻疹(はしか)の菌を持ち込み、人口はあっという間に半分以下になってしまった。イヌイットの酋長の娘ネビロと結婚して真っ当な生活がようやくできるようになったのも束の間、村人に強く請われてリーダーとなった安田は、みんなを救うためにカリブーの多い豊かな土地への移住を決意する。魔境とも言うべきブルックス山脈を何ヶ月もかけて越え、シャンダラー川を下り、ユーコン川近くで砂金を発見。それを元手にユーコン河畔の広大な土地に入植し、辺りにビーバーが多かったことから、その地をビーバーと名付けた。カリブー猟を再開し、家を建て、交易所を開いた。交易所は貨幣経済に馴染みのないイヌイットの人たちの経済的基盤を支えた。子供も授かり、フランク安田はやっと落ち着いた生活と幸せを掴むことができた。日本を出てから30年後のことである。1958年、日本が敗戦の混乱を抜け出し奇跡の経済復興へ突き進もうとするその時、フランク安田は一度も故国に戻ることなく、ユーコンの畔で息を引き取った。享年90歳。

 フランク安田のことを私が知ったのは、新田次郎の小説「アラスカ物語」によってである。アラスカの過酷な自然環境に加え、人種差別もあっただろう。自分が生き延びるだけでも大変なのに、同じアジアの血を引くイヌイットの人々を率いてユーコン河畔に理想の村を築いた。本のあとがきには「フランク安田の墓はビーバーの村にある」と記されていた。私はアラスカの旅程にフランク安田の墓参りを組み入れた。

 

フェアバンクスから四人乗りの小型飛行機で3時間。ビーバーの村は、蛇行するユーコン川と数えきれないほど多くのその支流、湖沼、ツンドラの只中にあった。土を固めただけの飛行場から徒歩5分のところに学校があり、校庭の片隅にテントを設営させてもらった。墓はすぐに見つかった。村外れと聞いていたが、村中央の墓地の一番奥に、他の墓と全く同じ佇まいでひっそりと立っていた。墓標の前に献金用と思われる粗末なブラスティックの箱が置かれているのが唯一の違いで、野口英世級の偉業を成した人の墓とは到底思えない。でも、それがかえってフランク安田という人の人柄を表しているように私には思えた。隣には奥さんのネビロの墓。二人の仲睦まじい様子が眼に浮かぶようだった。 

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左 : フランク安田と妻ネビロ。二人とも屈強の精神そのものの風貌である(アラスカ大学博物館所蔵の写真)。

中 : 墓苑の奥に他の村民たちと全く同じ大きさの墓標。墓前の箱にはわずかばかりの現金と手紙のようなものが入っていてた。私は日本から持って来たお守りを供えた。

左 : 墓標下のプレート。一瞬、富士山かと思ったが、、、

 

【後半】に続く

 

 

 

(9) パルナシウスを求めて【後半】

 7月3日、晴れ時々曇り。気温が低めなのはいいとしても、風が強いのが気にかかる。それに一般の観光客?みたいな人たちがちょこちょこやって来る。でも、そんなのは関係ない。めざすものに出会えればいい、それだけである。前回より飛んでいるチョウの数が幾分増え、高山性の花も咲き始めている。季節が少しだけ進んだのが感じられる。しかし、肝心のコマクサは花はおろか、葉も見かけない。7月に入ってまだ葉が地表に出ていないということは考えられない。つまり、私が見て周った範囲にはコマクサは自生していないと考えなければいけない。風は相変わらず強く、雲が増えて陽が全く差さなくなってしまった。本日はどうもこれで終わりのようだ。カラカラと気合いが空回りする。

 元々夜はテント泊のつもりでいたが、地元のオヤジが「車で寝たほうがいいんじゃないか。ま、クマは大丈夫とは思うが、、、」なんて言うのを聞くと、やはり気になるものである。ここは無難に車中泊することに決めた。夜中、雨が車の屋根を叩く音で目覚めた。テント泊してたら面倒なことになっていた。6時になってもまだ雨は降り続いていたが、雲の様子から「1日降り続く雨ではなさそう」と判断し、歩く範囲を半径3キロに広げて調べた。成虫の確認はすでに極めて難しい状況だが、せめてコマクサの自生だけでも見届けたいと意地で歩き回った。午後になってさらに強くなった風が「ゴールドラッシュじゃあるまいし、そんなうまい話はないってことだよ、、、」と嘲笑うかのように冷たい雨を私の顔に打ち付けた。

 

 2泊3日の孤軍奮闘は、結局何の成果ももたらさなかった。後で調べて分かったことなのだが、パルナシウス・エベレスマンニはアラスカからユーコン、さらに南下してオレゴンまで広く分布しているようなのだ。いずれの地でも個体数は多くないみたいだが、私が50年前に得た情報「北海道の大雪山とアラスカの一部に棲む稀少なチョウ」というのは当時の知見であって、その後、研究者が様々な場所でこのチョウを発見・採集して本当はかなり広範囲に分布していることが確認されていた。私は「浦島太郎」的な罠にはまっていたということのようである。でも、いい。50年前の昆虫少年の心で大地と戯れることができたのだから。

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左3枚 : いかにもパルナシウスが生息していそうな環境。 右端 : たまたまのご縁でアラスカ大学昆虫学教室の教授が標本室を案内してくれ、アラスカ、ユーコンオレゴンなどの産地のパルナシウスの標本を確認できた。今思うとラベルのデータだけでもメモっとけばよかった。

(9) パルナシウスを求めて【前半】

 ホワイトホースの観光案内所でたまたま手にしたパンフレットを見て、私は思わず「お、よ、ょ、」とのけ反った。「ケノヒルには珍しいチョウが生息していて、ケノシティーには研究所もある。チョウの名はパルナシウス・エベレスマンニ、、、」。

 あまりにも"いきなり"で面食らっているかもしれないので、ちょっと説明する。小学から中学にかけて、私は将来は昆虫学者になると一人で勝手に決めていた。中学生の時、親戚のおばさんに「どんな本を読んでいるの?」と聞かれて「昆虫図鑑だけです。それ以外の本は僕にとってどうでもいいです」と生意気に答えたのを今でもよく覚えている。そんな昆虫少年が夢に見るほど憧れていたチョウの一つがパルナシウス・エベレスマンニなのだ。で、そのパルナシウスはというと、日本にいる250種ほどのチョウの中で、「美しさ」と「珍しさ」という基準で人気投票をしたらベスト5に入るだけでなく、「最も採集するのが難しい」、いや、実質的には「採集できない」チョウなのだ。日本での分布は北海道の大雪山だけで、しかもそこは採集禁止。上高地・小笠原と並び特別保護区域に指定されていて、日本で最も厳しく監視されている。私の場合は採集ではなく撮影さえできればいいのだけれど、登山道から一歩でも外れるとどこからともなくレインジャーがやってきて摘み出されるという。これではまともな写真など撮れるわけがない。つまり、件のパンフレットが私の中で50年以上眠っていた昆虫少年の心に火をつけた、そんな感じなのだ。

 

 なにはともあれ、ケノシティーに行くしかない。アラスカハイウェイ(これは正真正銘のハイウェイ)から道を外れ100キロの未舗装路を走る。途中で天気が崩れ、丸々2日間キャンプ場で時間を潰し、ケノシティーに着いたのは3日目の朝、6月17日だった。予想通り"シティー"というのは名ばかりで、住人50人くらいの集落。ハイウェイといいシティーといい、日本の訳語は現実とかけ離れていることが結構ある。村人に研究所のことを尋ねて知らないようならガセネタだな、、、なんて考えながら、村の真ん中に停めた車の目の前にパンフレット裏に出てた研究所の写真と同じ建物があるじゃないか。なんだか幸先がいいぞ。係のオヤジさんの説明はトンチンカンなところもあったけれど、標本を示しながら「このチョウはケノヒルにいる。ここから11キロ離れてるけど車で上がれる」とのこと。あのパルナシウス様がいる場所に車で行けるだなんて、まさに夢のような話だ。

 ケノヒルは"ヒル"とは言うものの高山特有の地質と植生で、明るく開けた頂上一帯はまさに大雪山。私は「この環境ならパルナシウスがいて全くおかしくない」と直感した。あたりを歩き回り何か飛んでいないか、植物の様子はどうかチェックする。高山性のチョウがちらほら飛んでいるが、めざすパルナシウスではない。植物は、パルナシウスの幼虫が食べるコマクサを重点的に探したのだが見つからなかった。時期が早いことは分かっていたから成虫が飛んでいないのは納得できるのだが、コマクサは、花は咲いてなくとも葉は出てなくてはいけない。結局、ケノヒルには半日滞在して引き上げた。諦めたのではない。成虫が確認できなかったのは時期が早かったからだろう。コマクサは、場所を広げて探せばあるに違いない。なぜなら、成虫が記録されているのだから。大雪山を彷彿とさせるこの環境なら、時期が来ればパルナシウスが飛び交うに違いない、、、考えただけで思わずニンマリし、7月初めの再訪を決めた。

 

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左・中 : このパンフレットがパッと目に飛び込んできた。多分「チョウ」ないし「チョウのようなもの」が視界にあると私の中の何かが勝手に反応するのだろう。

右 : ケノシティの「研究所」にあったパルナシウス・エベレスマンニの標本。これだとちっとも綺麗に見えないが、どんな美人だって棺桶に入れば、、、みたいなものと理解していただきたい。データがちょっと古いのが気がかりだが。 

 

 

【後半】に続く

 

 

 

 

 

 

 

(8) 消えた白いポール【後半】

 次の日の夜、8時半過ぎ。昨日、白いポールが見えた時刻まであと少しだ。私は一つの「仮説」を立てた。ここは北極圏に近く、夜になっても太陽がなかなか沈まずに地平線に沿って移動する。真横に近いくらいの角度で日の光が辺りを照らし、すべてのものに長い影ができる。私は考えた。ある時刻になると太陽の光が白いポールに当たり、その反射光が私のいる場所に届くのではないか。その時刻が午後9時半。9時前の時点で白いポールが見えていないのは、反射した光が私の位置とは少しだけ東側にズレているということではないか。9時を過ぎた。地平線近くの太陽が発する光が辺りを包み込み眩しい。そろそろ、白いポールが光り出していい頃ではないか。写真撮影はもちろんのこと、双眼鏡も用意してはっきり決着をつけてやる。 

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左 : 6月22日午後9時15分。この時刻では見えない。バックの空に溶け込んでいるのだろう。

中 : 同日9時35分。はっきりと白く光っているのが分かる。ポールの表面は反射率の高い「白」で、しかも「平面(つまりポールは細長い四角柱)」ではないだろうか。「曲面(ポールは細長い円柱)」なら光り始めと光終わりの区切りがもっとあやふやになるはずだ。

右 : 同日9時46分。およそ10分で光りの「いたずら」は終了した。

 

 「夜の9時なのになんでこんな明るいの?」ってのが、皆さんの共通の疑問だろう。ここは北極圏まで二百キロくらいの高緯度地方で、しかも6月下旬のほぼ夏至の時期。北極圏なら夜がなくなってしまう白夜になる季節だからなのだ。

 

 確かに、山では怪奇なことに出会うことがある。謎が謎のままになってしまうことも多い。でも、今回の「白いポール」は私の仮説がぴったり当たった。「やったぜ」という気持ちと「なーんだ、そんなことか」の気持ちが半々ずつ抱えて、私は久しぶりに文化的な生活のできるドーソンの町に戻った。

(8) 消えた白いポール【前半】

 日本でのことだが、山ではたまに「あれっ?」とか「変だぞ!」と思うことが起きる。人っ子一人いないはずの山中ででテント泊をした時、暗くなってから、「ぎゃー」という叫び声を聞いたことがある。そのあたりで猿を見かけたことはないし、どう考えても人の声としか思えなかった。小屋開き前の山小屋に泊まった時は、明け方近くに突然「ガーン」という金属音が真っ暗な小屋中に響き渡った。宿泊客は私一人。小屋主が何か叫ぶかと思ったが、何も起こらない。朝になり例の怪音について小屋の主人に尋ねてみたが、そんなことあったかなあみたいな拍子抜けの反応。一体、あのガーンはなんだったのか。落石が小屋を支える鉄の支柱に当たったという可能性を考えて、出発前に小屋の周りを点検してみた。岩も壁の穴も何もなかった。小屋主が知らないフリをする理由が見当たらないし、うーむ、変だ。最もたまげたのは南アルプスの三峰岳の山頂での「霧の中から突如現れた女」だ。場所は、普通の登山者はまず足を運ばないマニアックな山だ。しかも女は単独行。あの山に女の人が一人で登ることは常識的にありえない。冷たい雨の中、ヘトヘトになってで山頂にたどり着いた私は、頂上の石積みにザックを下ろして、とりあえず近くでオシッコをした。霧がいよいよ濃くなり、体を動かしていないと体温が奪われる感じだ。早く下山しようとザックに戻ったその時、白い雨具に長い黒髪の純日本風美人が突然、霧の中からすっと現れたのだ。やや強めの風は吹いていたと思うが、それまで人の気配は全くなかった。相手が美人なだけに、「オシッコしてるとこ見られなくてよかった」と咄嗟に思ったのを今もはっきりと覚えている。オシッコの引け目があったのでほとんど言葉を交わさなかった。あれは一体なんだったのか。新珠三千代似の(今の人は絶対知らない。新垣結衣じゃあないから)あの美人は何者だったのか。

 

 ユーコンのトムストーンキャンプ場でのことだ。夜、おそらく9時を少し過ぎた頃、私はキャンプ場の正面の山の頂に白く光るポールを見た。デンプスターハイウェイに面している山だから電波塔か方位標か。就寝前の数分間、私はぼーっとした頭で白く輝く山頂のポールを眺めた。自然の中に人工物は少なければ少ないほどいいと普段から考える人間なので、寝袋の中で私は少しだけ残念に思った。

 翌日、近くの小ピークに登り、例の山を眺めたが何も見えない。あれ、変だぞ。昨夜は確かに白いポールが光っていたのに。山は他にいくつもあるが、特徴的な形の山だから場所は間違えていない。位置関係で何かが視界を遮っているのか。いや、最近とみに落ちてきた視力のせいかなあ。昨夜は絶対に見た。でも今は見えない。じゃあ消えたのか、あの白いポールは。いやいや、安易に"超常現象"に走っちゃいけない。冷静に、科学的に対処せねば。もしかすると、、、

 

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山頂左側にはっきりと見える。周りに人工物がないから目立っている。

 

【後半】に続く